ツアーで田野畑と三陸沖に行ってきました

■ツアーの呼び名は『三陸鉄道・浄土ヶ浜遊覧船・八戸朝市、港町に再び鳴り響く…鉄道の音・船の気船・朝の喧騒、がんばろう東北「絆」でつなぐ三陸路2日間』と実に長いタイトル。
◆行程表は盛岡着、バスで田野畑村(津波被害をうけた三陸沿岸の漁村)へ。津波体験語り部ガイドと被害地を視察。高さ2百米もの断崖が続く景勝地「北山崎」も見物、宮古で新鮮な海鮮丼の昼食、浄土ヶ浜(震災後、津波の影響を受けずに一隻だけ残った船で)宮古湾遊覧。宮古駅から手旗信号で一部区間の運行を再開した三陸鉄道、バスで宮古から盛岡駅?東京です。
◆日程は師走の中旬、忘れずにやってきた寒波の激しい16、17日でした。重装備の厚着で大宮駅から乗車し、早速御近所さんに「このツアーをどこでお知りになりましたか」「新聞で見つけました」「私も新聞で」みなさん福島や三陸沿岸が気がかりだったと言います。参加者は満席の44名、親たちが東北出身者も多いようです。男性も多くここでも多数派は60才代でした。
◆盛岡からのバスはまず車内で盛岡駅弁の昼食。途中道の駅でトイレ休憩、道の駅“たのはた”で若々しい地元NPOのガイドさんが待っていてここから沿岸の島の越駅に着きました。広々としてなにもありません。駅舎も人家も。きれいに片づいています。「全部村の人達でやりました。ここには自衛隊をはじめNPOなども入っていません」とガイドさんの説明。隣の田野畑駅は駅舎だけがポツンと残って周りが広々としています。すぐ手前の人家は流され駅を境に山側に人家が見えます。ここで中年のガイドさんと合流し、私達も二班に分れて動きました。新しいガイドさんの自己紹介は「あの日私もここまできて助かりました」と。
◆昔の陸中田野畑村は、海岸に向う30近い渓谷で細断され平野部分はわずか16%。集落は段丘の上や小さな入江に点在していました。戦後は開拓や酪農も始まり思惟大橋も架かり第三セクターの三陸鉄道が走り、今では海岸線の方が活発になったと言います。
◆右・左にトンネルがある羅賀の浜も海水浴にはもってこいの場所、鉄筋高層の羅賀荘にも大勢の人達が働いていました。ここも広々と片付いています。ホテルも激しくやられ従業員は職場を失いました。ここで二班が合流しここから陸中海岸国立公園の北山崎に向う途中、番屋街を通りましたが跡形もありません。浪音だけの机浜でした。
◆八戸で一泊した翌朝、朝市を見学しました。私は一足先に集合場所に戻り目の前の大橋を渡りました。両側に歩道がある立派な橋です。向こうからきた女性にあいさつし「この川はなに川ですか」「新井田川です。あの日この川の水がどんどん引いたのです。恐ろしかったですよ」この悠々たる流れが逆流する。そんなことが起きるのか。バスの姿が見えたのであわててお別れしましたが、本当に驚きました。
◆宮古に着いて一隻だけになった陸中丸で浄土浜をめぐりました。あの日観光客を降した直後強い揺れを感じた船長は、接岸せずに波まかせで二夜をすごして入港、船は助かったのだそうです。機転のきく船長さんと握手して下船、宮古から小本駅までの三陸鉄道にのりました。ふと向いの来客に「地元の方ですか」「はい、家内も家もながされました。私は気を失ったあと自力で逃げ九死に一生でしたが、声がでません。今日は病院の帰り、ようやくここまでになりました。六十才まで学校の用務員をしていました。はい、仮設ぐらしです」偶然この目の前の男性が…。駆け足ツアーの旅でしたがまさに歩く、見る、きく。ここからの始まりを確信しました。(金井重
十二月詠
 あの日の川水
金井 重

みぎひだり トンネル前の 羅賀の海
   鉄路まきあげし 波の青さよ

シンボルの 24棟 番屋街
   波の音のみの 机浜すぐ

白雪を ふんで大橋 渡りけり
   あの日川水 ぐんぐん引きしと

波まかせ 二夜ただよい 帰りつく
   気骨の船長 おだやかなメタボ

三陸の ことこと走る 鉄道の
   客は被災者 静かに座して

今世紀 初の卯年の 11年
   絆できずく なでしこジャパン

わくわくと 惑星「ケプラー 22b」
   あなたの名前よ これからよろしく

就活と 終活はやる 御時世よ
   今日も出歩く 終活もあり

後期、好機、光輝、好奇の 今日はどれ
   お出かけにかぶる 高齢者帽子

雨上り 血洗い池の 生き生きと
   鯉も口ひげ ピンと伸ばして