2007年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・334号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

の通信を発送する当日の12日午前3時過ぎ、この文章を書いている。時に激しい雨音がするが飲み屋街(私の住む四谷荒木町はかっての花街で路地には酒場や割烹がひしめく)もこの時間ではさすがに静まり返っている。ところで、午前3時過ぎと書いて、ある文章を思い出した。
◆「今3時半(夜中の)ストーブをつけてペンを取り上げてこれを書いて居る。とても具合がよくて楽しい。でもつまむものがあったらもっと楽しいだろう」深夜ひとりでものを書く楽しさを伝える文章だ。「今4時夜なかにをきているのも楽しいものだ。何時になるかしようがないからをきている。役所に居る時前が「オトウフ」ヤの女の子で家中朝2時半にをきて「オトーフ」を作るのをきいてたいへんなしょうばいだなと思った。冬には寒くてたいへんなしょうばいだなあと思った」
◆私事で恐縮だが「わたしの一代記」と表紙に書かれたこの小さな冊子は母がノートに綴った文章を卒寿を祝って家族がまとめたものだ。平成11年1月とあるから8年以上前のことになる。93才になる前の日に旅立ってからやがて7回忌を迎える。小学校しか出ていないが、母は勉強熱心でビール好きであった。下町生まれで何かというと「江戸っ子」であることを自慢し、家族に配られた冊子には本人自筆の「さいごの江戸っ子」という文字が躍っている。
◆関東大震災で父と家を亡くした母の実家は、その後東京・品川の大井町駅近くに移った。子ども時代祖母のいるその家に行くたび、省線(国鉄のことを当時はこう呼んだ)を見下ろす高台から行きかう電車を飽きずに見守り続けたことを思い出す。ラジオが大事な時代で放送が始まると町の人通りが絶えたといわれるあのメロドラマ「君の名は」や「おらあ三太だ」で始まる当時の子ども向け人気番組「三太物語」などでは“ダッタン、ダッタン”という独特の省線の「効果音」がいつも耳に残った。列車の効果音は高台から見下ろす省線とともに最初の「旅へのあこがれ」の記憶なのである。
◆以上のことを書き出したのは、上野-浅草間に日本最初の地下鉄が走りリンドバーグが大西洋横断飛行をやった1927年、福島県郡山に生まれた金井重さんの最初の旅へのあこがれが「汽車見」だった、と聞いたからである。「小さい弟を連れて停車場に行くのよ。屋根に雪を載せた東北本線の列車が着くでしょ、そこから降りてくる人、乗ってゆく人を見ながら旅愁を感じてたわけね」サーカスの旅芸人たちもあこがれのマトだった。子ども時代、暗くなっても帰らないと「サーカスに売っちゃうよ」とよく言われた。そういう時、「売られてもいい、と思った」というのだ。町から町へ旅する人たちにあこがれていたから。
◆地平線報告会で重さんにはじめて話をしてもらったのは1988年1月だった。タイトルは「熟年パワーで駆け巡った50か国」。「旅には三つの秘訣があるの。時間・貧乏・好奇心。貧乏は大事なことよ、ホテルに入っちゃおしまいね」(地平線会議編『地平線の旅人たち』から)と豪快に話す重節(しげぶし)は、以来地平線仲間にとって欠くことのできない副読本となり、何度も報告会に登場してもらった。「サイタサイタ サクラ ガ サイタ」「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」の国語教科書で育った小学校時代、重さんのクラスで「一番遠くまで行った人」は宇都宮までだった。その少女が53才になってはじめた世界旅は、いつの間にか訪問国120か国余を数え、その中から新たな旅の流儀が創り出され、いまなお変貌を続けている。
◆母の話に戻って重さんより19才年長である母の時代、旅行は勿論国内に限られた。日本の敗戦後は4人の子どもを飢えから守るための戦いの日々が続いたからそれも随分後になってのことだ。ある日「旅の思い出」という別のノートが出てきた。「新幹線も省線みたいでいつでもやたらに乗れる。そしていつでも楽しい乗物である」(1977年8月22日)などと書いてある。私自身はほとんど一緒に行けない親不孝者であったが、母に多少は旅を楽しんだ時期があったのだ、ということを知って救われた気分になった。
◆どの国に生まれ落ちるか、で人生は大きく左右されるが、どの時代を生きたかも、同じように重要な要素だ。「幼稚園に入った年に満州事変、小学校で日支事変、女学校で大東亜戦争」(前掲書)というとてつもない時代を生き抜いてきた重さんの旅の報告は、“年金おばさんの地球見聞録”という捉え方では到底おさまらない深い内容に溢れている、と思う。「敬老」ではなく「敬重」の心で20日の重節に期待したい。頂いた著書『地球、たいしたもんだね』(1996年、成星出版)の署名に添えられた一句。「しげしげと 地球の細道 やぶ椿」(江本嘉伸)