part.7 前代未聞大リレー・トーク
「地平線の群像」

賀曽利隆 スティーブ・シール+笑みこ 青木明美+颯人

服部文祥 金井重 白根全 風間深志 宮本千晴 向後元彦

森田靖郎 江本嘉伸 石川直樹

●この日最後を締めるセッションとして、300回の報告会に登場、現在も活躍中の行動者たちにステージに上がってもらい、それぞれの「昨日・今日・明日」を語ってもらった。
●会場にはまだまだ多彩な顔ぶれがいたが、時間の制約から全員を紹介できなかったことは、残念だった。結果的に、この日の冒頭、奇術箱の中から登場した石川青年が、最後もしめくくるかたちとなった。
[進行・聞き手]江本嘉伸 服部文祥 石川直樹 菊地由美子  [画像]三輪主彦 尾浜良太

レートークの第一走者は、賀曽利隆さん。中国・ハルビンを拠点に中国で「北極」と呼ばれる最北端、最西端、最東端を目指すバイク旅だ。旅のお供は「made in china」の110ccバイク。これで全行程6200キロのガタガタ道を時速90~100キロで飛ばす。西端はロシア国境、東端はゴビ・タクラマカン砂漠の東のはずれを踏んできた。

◆実はいつも、「岬を踏んだゾ」という賀曽利さんの報告を聞きながら、バイク乗りが岬や国境というエッジを目指す思いを計りかねていたのだが、今回の話で、道ある限り進むという精神なのかもしれないな、と思った。いま見えている地平線の先には、何かがあるかもしれない。「じゃあ、行けるところまで行ってみよう」と。

◆賀曽利さんにとって、20歳の頃の世界の中心はアフリカだった。アジアに目を向けるようになったのは40代以降のことだ。サハリンからエリザベス海峡を望み、韓国を一周し、中国・ロシア・北朝鮮の三国の出会う地点にも立った。

◆そうして、旅を始めた20歳から5千数百日の朝を旅の中で迎えた。走った距離は102万キロ=地球25周分。訪れた国は130ヵ国、国境越えは、もう200~300を数えるだろうか。「国境の賀曽利」と呼ばれるようになった。いま57歳。これだけ走っても、まだこの先には新しい世界が待っているかもしれない。だから今日も「とにかく走り続けるゾー!」。

◆と、ここまで聞いて、軽快な語り口にごまかされていることに気がついた。今日の題は「息子との二人旅」ではなかったか。2500枚の中から選りすぐられた、5枚の最後のスライドには、息子さんと並んで満面の笑みをたたえる賀曽利さんの姿が写る。そのスライドの存在にいま気がついたかのように披露しつつ、時間がなくなるからこの話は一切しないなどと逃げる賀曽利さんを、石川さんが追う。親父と息子の関係というのはなかなか難しいものだが、そこんとこどうなん?

◆「約30日間、まあまあ面白い旅だったかな。でも親子旅っていうのは一度でいいかな」。親父と息子の照れくささが垣間見えた。

の賀曽利さんの紹介で、スティーブ・シール・笑みこ夫妻にバトンタッチ。笑みこさんの旅始まりは、高校生時代に乗ったスクーターだった。その延長といえるオートバイでの旅行中、出会ったおばさんの「人生やり直したいわ」という言葉に、はっと気がついた。「人生は一度きり」だと。22歳の誕生日に自分に世界一周の旅をプレゼントした。

◆まずは足元から、と日本を10ヵ月かけて一周し、渡ったオーストラリアで自転車旅を続けているスティーブに「ひっかけられた」。オートバイそのものより旅が好きになり、「エンジン付きでは早すぎる」と思い始めていた頃、最高のパートナーに出会ったのだ。バイクを自転車に乗り換えて、二人旅が始まった。東南アジアから北米、南米、アフリカ、ヨーロッパ、ユーラシアと、11年半かけて進み、中国・パキスタン国境のクンジュラブ峠(4700m)を越えたところで、思いもかけない病に倒れた。癌だった。咳が止まらなかったり、腰が痛いのも我慢して旅を続け、ゴールまであと数ヵ月というところで無念のリタイア。日本に緊急帰国し、スティーブと二人三脚の闘病生活が始まった。

◆実は、私には、笑みこさんとスティーブと三人で川の字になって寝た夜の思い出がある。寝相によって痛むという笑みこさんの腰をさすり続けるスティーブの姿に、そのときほど「二人三脚」という言葉をまのあたりにしたと思ったことはない。

◆2人はいま、奈良の山奥に移り住んでいる。病気になって、これまでの生活の悪い点を改善した。畑仕事をし、囲炉裏のある我が家に帰る生活をしていると、生命力をもらう気がする。そして-。

◆この12月、再起の旅に出る。余命半年もないと言われた命が、旅を再開できるまでに復活した。不安がないわけではないが、「私たちにとって旅は人生そのもの」。恐がるよりも、「限られた命を生かして生きたい」。その言葉に実感がこもる。

◆笑みこさんは自分のことを楽天家というけれど、私は「受容の人」なんだと思っていた。いいものも悪いものも、ときにはむごい運命さえも、全部肯定して受け容れ、前に進める人。中断されたあの地点からその先へ。“さあ、明日に向かってレッツゴー!”

こで、青木(生田目)明美さんが愛息子・颯人(そうと)くんを抱いて登場。通信で語られていた、あの壮絶な出産記の成果がこの子なのね、と思うとなんとも感慨深い。

性本能をくすぐる赤ちゃんの後に出てきた次の報告者は、これも文字通りの「野生児」を思わせる、フリークライミング、テレマークスキー、サバイバル山行という3つの登山スタイルを実践している服部文祥さんだ。服部さんのスタイルは、道具に頼りすぎて身体から能力を切り離してしまった現代人の限界を超えて、自然の中で自由を獲得しようという挑戦と思える。

◆服部さんは、人工登攀の発達によってどんな山にも登れる、と考えるのは錯覚だと思ったという。そして、何百人ものポーターの助けを借りて登るヒマラヤ登山にも違和感を覚えた。「いったい、『登る』ということはどういうことなのか」。純粋に追求していくと、自分から文明品をはずして山に挑戦する、フリークライミング思想にたどり着いた。裸の自分で登る。自分の内側から登りたいという気持ちが出ることがフリークライミングだ、と体で分かったという。

◆逆に、テレマークスキーは、スキーという道具を使うことで自分自身が山の中で自由になるのが狙いだ。これならヒマラヤの奥へも自力で進めるのではないか。いまなお挑戦中だ。

◆では、フリークライミング思想を日本の夏山に応用したらどうなるか。その問いの答えがサバイバル山行だ。米と調味料だけを持って、できる限り道は使わず、大きい山塊を長く歩きたい。現地調達の山菜に、イワナを釣って焚き火で焼いて食べる。この夏、日高の全山を、一度も下山することなく、デポもせずに歩き抜いた。無補給・単独行。古典的でありながら、極めて新しいスタイルであるともいえるだろう。

◆イヌイットの子は3歳にして「自分がやらなければ生きてはいけない」と悟る、という話を紹介した上で、「自分にそれを教えてくれたのは山だった」と服部さん。自分で『生きたい』と思っていなければ生きられない。だからちょっぴり本気で思っている、「山登りが日本を救う」と。服部さんを見ていると、現代人はどこまで強く、自由になれるのか、と目の前が明るくなる気持ちがした。

のあと、舞台は一転。今度の旅で喜寿を迎えた金井重さんに、石川さんから花束が贈られた。最近はいつも言われるそうだ。「あなたまだやっているの?」と。いったい私たちは、なぜ旅をするのだろうか。人類の歴史を繙くシゲさんの談-。

◆サルの人口が増加して、誰かがジャングルからはみ出さなければならなくなったとき、動いたのは誰か。ボスでも保守的なものでもない、好奇心旺盛の、いわば地平線的なサルだ。そうして、原人が猿人になって新人になり、グレートジャーニーが始まった。で、一句。 「サバンナに出て 人になる 旅はじめ」

◆シゲさんは“サバンナ”に出るまでの50数年間、苦言実行に生きてきた。いまの時代でも、働く女性には何かと苦労がある。その先駆けともいえるシゲさんの時代には、なおのことだろう。男社会の中で戦っていると、男性的な発想が身についてしまう。だからシゲさんの経歴を知るにつれ、その大らかさはどこから来たのだろうと思うことが何度もあった。

◆「旅の中でやわらかいシゲさんが出てきたのよ。私のニコニコは100万ドル。旅のおかげでシゲさんここにあり」。

◆自分の働きかけ一つで人の対応も変わる。だから人の出会いに助けられる旅先では、いつも“ニコニコ”を心がけている。今回行った中国では、長白山に登った。ツアーだが、みなのペースについていけない。息が切れる。年齢を感じないわけではない。それでも、一人旅はマイペースだ。マイペースならば旅はいつまでもゆるやかに続く。シゲ節のキレはますます冴え、今日も笑いの渦に包まれてニコニコと、めでたく節目を迎えたシゲさんであるのだった。

のシゲさんが81年に訪れたペルーのリマで、日系ペンションの管理人をしていたのは、今や「世界でたった二人のカーニバル評論家の」白根全さん。全さんの上にカーニバルの女神が降りてきたのは、50ccバイクでサハラを横断した1987年だった。セネガルのダカールで地図を広げると、海の向こうにブラジルが見えた。「やっぱりカーニバルだよな」。わけもなく閃いた。

◆ラテンには、自然の中で体を張るのとはまた違う面白い世界が広がっている。ラテンはどこにも取り込まれない。むしろ周りを取り込んでしまう、底抜けの明るさがある。

◆後先を考えずに、いまこの場の楽しさを追求するラテンの真髄を実践して、今年も勇んでカーニバルに出かけた。2月に行ったペルーのカハマルカを皮切りに、リオ、ブラジル北東部のサンルイス、キューバのサンチアゴデキューバ、9月に行ったNYのブルックリン。アンデスの打楽器に、ヒョウ男、団扇太鼓、スチールドラムと、そのスタイルもさまざまだ。

◆カーニバルの4日間のために一年間がある、というラテンの世界。刹那的とも見えるカーニバルに全身全霊を投じさせる力は、まさに「誘惑」と呼ぶにふさわしいのかもしれない。

◆「人はカーニバルのために生きる」と公言してはばからない白根さん。いま一番の悩みは、来年のカーニバルにどこにいくのか、だそうである。

の登場者は、先ごろのパリダカで重傷を負い、7月の報告会では病院のベッドの上から痛々しい姿のビデオ出演となった風間深志さん。あの光景がウソのような元気な姿で、椅子に腰掛けてニコニコと笑っている。その笑顔に、賀曽利さんの明るい声がかぶさった。
◆「風間さんのいいところは、適当さといい加減さ。みんながあっと驚く常識を超えたことがなぜできるのか、というと、いい加減で適当だから」。

◆まるで我が冒険談を語るように、賀曽利さんの口から澱みなく、次々と風間さんの旅が語られる。80年の元旦にバイクで目指したキリマンジャロ、チーム「ホライズン」で参加したパリダカ、高度に挑戦したチョモランマ、アコンカグア、北極点、南極点…。「こんなことをやったのは、人類史上、風間深志だけ!」。息継ぐ間もない勢いで数々のエピソードが披露されたところで、ようやく風間さんが口を開いた。「やっぱり、止まったらおしまいなんだね」。

◆地平線を追っかける地平線ハンターのつもりでやってきたけれど、十数年どこにも行かなかった。地平線を見失ったようで、行くところがなくなってしまった。しかし、その間にも走り続ける盟友・賀曽利隆の姿があった。

◆「旅はやってなきゃだめ。昔話にし始めたらおしまいだな、と痛感した。また新しい地平線への旅へ風を受けて行こうかな」。

◆足が悪くなったら、50ccバイクに乗り換えてもいい。気持ちを新たに、また旅に出ようと、今日、思い直した。左足にギブスを巻いて、松葉杖を脇に抱えた風間さんが言う。

田真智子さんは、19歳のときに鹿児島の沖永良部に行ってから、島ばかり旅している。結婚前も島旅、結婚後も「ダンナのボーナスで」島旅。そして、夏帆さんが生まれた。仮死状態で生まれた娘は、後に「点頭てんかん」という難治性てんかんの一種を持っているとわかった。島をまわって32年、夏帆さんは17歳になった。

◆この5月、夏帆さんは喉に痰が絡んで入院した。死亡率が高いといわれる、15~17歳にかけての、子どもから大人に変わる時期だ。ハビリテーションによって自力で食べられるようになった胃に、またもやチューブが通された。それは、親として受け入れ難いことだった。「この子は私たちの50歳くらいに相当するのだから、(再度、チューブを外す)練習をするのは無理だ」という医師の言葉に、絶望が広がった。これからずっとチューブを付けたままでいくのか、人生の生きる直線を落ちていくしかないのか。

◆「3ヵ月ではずそうね」。そう夏帆さんに語りかけて、繰り返し練習をした。いま夏帆さんの鼻にチューブは入っていない。重度の障害だから、もう17歳だから、と新しいことをする可能性を否定してはいけない、そう教えられた。

◆夏帆さんが入院すると、河田さんは病室を離れられなくなり、退院しても3ヵ月は24時間の介護が必要になるという。そういう生活を続けていると、「自分は旅に何を求めていたんだろう」と考える。就職や結婚、出産…、人生の中で、女性には好きなことを止めざるを得ないきっかけがたくさんある。「それでも好きなことを続ける。大変であっても可能性をあきらめずに頑張れる」。河田さんが島から学んだことだ。それが夏帆さんの中にも生きていることが、いま一番の自慢でもある。

◆この春、夏帆さんとの旅を写した写真展を見させていただいたのだが、その中の言葉が印象的だった。「娘との旅は、周囲に迷惑をかけているのではなく、勇気を振りまいている旅なのかもしれないと思った」。

◆重度の障害を持つ子供だから一緒に旅はできない、と諦めることはしない。そこに、可能性を否定してはいけない、という先の言葉が重なる。 ◆最後のスライドは奄美大島からだった。河田さんは、今日も島旅を続けている。

レートークも終盤を迎え、創設者の5人が舞台に上がり、当時から現在に至る数々のエピソードが語られた。普段まとまって聞く機会がない話に、改めて当時の熱い思いを伺い知ることができた。

◆現在の形に整った報告会しか知らない私には、「報告会こそ地平線会議」という印象が強い。しかし、賀曽利さんによると、「日本人の海外旅を記録にまとめたい、というのが第一。それに付随するプロジェクトの一つが報告会でした」という。

◆創立者たちが思い描いていたものも三者三様だったようだ。日本観光文化研究所(観文研)出身で、「上から仕掛けるようなものはやめにしたい」と思った宮本千晴さん、賀曽利隆さん、向後元彦さん。一方で、第二の観文研を作ってもしかたないと、年報を重視した森田靖郎さん、江本嘉伸さん。「年報が出るたびに記念の集会をやった。『地平線から』が1冊できるたびに嬉しかった。100回、150回の記念集会というんじゃなくて、年報の刊行が毎回大集会開催につながった」(江本さん)。素人には負担の大きい年報を独立させる動きもあった。紆余曲折を経て、いまの地平線会議に落ち着いた。

◆最近の行動者の報告に対しては、「自分たちが昔、探検部で目指したものとずいぶん違ってきていると感じた」(向後さん)、「当時イメージしていたよりはるかに幅が広がったように思う」(宮本さん)。

◆その一方で変わらないものもある。「自分自身で動いたものしか信用するな」(宮本さん)という「あるく・みる・きく」の精神は、いまも昔も地平線の行動者ならみな持っているし、「既成の力に反発する気持ち」(森田さん)という精神もまた然り。10年続けばいいね、と言っていた地平線会議は、四半世紀経ったいまも、時代の気分を反映しながら脈々と続いている。

◆その秘訣は、「その時点で面白がって(報告会の)活動をする人が、リレー方式に300回ずっと続いてきた」(賀曽利さん)。25年前に走り始めた人たちがいて、何百人もの人がそのリレーに加わり、バトンを受け取っては次へと手渡す。当時の宮本さんは、「集まって話を聞いて散っていくことをむなしいと感じていた。流れて消えてしまうことを続けていかなければならない予感に怯えていた」というが、結果的に流れても消えていかないものがあった。人のつながりだ。

◆私はいつも不思議に思うのだけれど、いつかバトンをつないだ誰かと、報告会の外で引き合わされることが少なくない。積み重なった人のつながりは、ごく最近になって面白がって汗をかいた私にまで及び、確実に残っていく。そのことは、始めた人たちに、そしてなにはともあれ、やり続けてきた人たちに負うところが大きい。

◆年報こそ毎年出せなかったかもしれないが、毎号続いている地平線通信というものがある。丸山さんが主導して出来上がった「大雲海」には、一級の行動者たちの25年間の足跡がしっかり詰まっていると私は思うのだが、どうだろう。

◆そして森田さんのこんな言葉に、古株も新参者も思わず深くうなずいたのではないだろうか。「地平線会議は、ぼやっとした灯台に似ている。闇夜に航海する船が、航路でときどき灯りを確かめるように、ここに来て自分たちのやっていることを確かめ合う」。

よいよリレートークもラストだ。最終走者は、「その先の地平線」タイトル発案者の石川直樹さん。石川さんは海をフィールドとしてきた。目印になるものの何も無い海の上、海図もコンパスも使わずにカヌーで島と島を結ぶ伝統航海術に魅せられ、南太平洋の島々に通った。「星の航海術」を追ううちに、カヌーはどこから来ているのか追ってみたくなった。いま、カヌーの原材料となる大木は少なくなっており、流木に頼っている状態だという。流木の旅路をさかのぼっていくと、ニュージーランドの原生林にたどりついた。

◆舞台上では原生林の映像が流される。タイトルは「The Void」(=空白、無限、何もない)。目印になるものは何もないが、つながっている感覚がある。マオリ族の聖地となっているその森こそが、カヌーだけでない、雲やすべての源になっているのではないか。いま石川さんは、その森に魅せられ、足を運んでいる。

◆そうやって旅は続いていく。あのとき見えた地平線の下にたどり着いたら、またその向こうに見える地平線まで足を伸ばしてみたくなる。そこから見える地平線の元にたどり着いたら、また新たな景色が見えるのだろう。

◆自分の目で見て、考えて、そのことを報告する。だれかの旅を代償行為にすることではなく、あくまでも主体は自分にある。それが地平線会議なのだろうし、これからも私たちは、そういう旅を続けていくだろう。[菊地由美子